考えれば考えるほど面白い十二国記の世界

今、十二国記の最新巻に至るため、既刊を一気に読み返している。面白すぎて手が止まらない。そして、読んでいないときは十二国記のことばかり考えている。
初めて読んだときも駆け抜けるように読んだ。だからこそ、内容を詳細に覚えていないのだった。
初回の数年後である二周目の今、ある種の新鮮さを抱きながら読むことが出来ているのも面白い。ここで、こういう助けがあるんじゃ……みたいな予感として物語の先の展開を浮かべる感覚が不思議で愉快だ。

以下は、刊行順でいえば『白銀の墟 玄の月』前までのネタバレに触れる。まだ最新刊には辿りついてないのだ。

ずっと考えていることがある。
王が政に失敗し、民を苦しめると天意は目減りし、いずれ麒麟が失道になり、王も道連れとなる。『華胥の幽夢』の「華胥」では、はじめ、登場人物達の目から見て、王は酷い失策をしたわけではないのに、麒麟は不調を訴えるという薄ら怖さがある。
これを読んでいて思ったのは、もし『風の万里 黎明の空』のとき、陽子が町で暮らしてみたいと願わなかったら、どうなっていたのか、ということだ。
『華胥の幽夢』の「帰山」では王朝の存続についての様子が語られている。王朝が続くかの節目は、はじめの10年、そして王でなく普通に生きていた場合の寿命あたり、300年という山があるという話だった。このはじめの10年である程度、朝廷の形が整うとその王朝の寿命は長くなる、というようなことが語られていたと思う。
『風の万里 黎明の空』では、和州の出来事によって、陽子はたくさんの重要なものを手に入れた。
ひとつは自分を導いてくれる師、それも長期王朝の達王に教えていたという松伯。
ふたつめに有能で民から信任の厚い官吏や部下、『華胥の幽夢』の「乗月」で浩瀚のその様子がよく分かる。和州の乱で共に戦ったことによって、桓魋との信頼関係も結ばれているわけだ。
みっつめに蓬莱ですら得ることのなかった友がそばにいることだ。『月の影 影の海』で楽俊という唯一無二の友との出会いがあったが、同性で同年代(姿かたちは)という友人は、陽子にとって得難いものだったと思う。そしてなおかつ、朝廷から悪辣な官吏を締め出すことができたのだ。陽子が町に降りず、朝廷にいたままだったら、を想像すると、なぜ天意に選ばれた王が斃れるのかが分かる。実情をよく分からないまま官吏の言いなりになり、禁軍を出し討ったのが、暴虐な官吏に対抗する和州の勇敢な民や民を思う有能な人々だったら、王朝は10年の節目を越えられず傾いて沈んでいったのだろうな、と想像する。
『図南の翼』では利広が供王の運気に巻き込まれた、というようなことを話していた。この和州の乱でもその導き、陽子の王気について考えてしまう。その一方で、悲惨な結末があったかもしれないと考え得るからこそ、利広の慶に対する評が嬉しい。

十二国記を読んでいて、面白い本は作者そのものの思惑が文に透けて見えないんだよな、と痛感する。文章を読んでいるときは、そういう雑念すら思い起こさせる間もなく、物語に没頭し、夢中でページをめくる。そういう時間が幸せで仕方がないのだ。
だから十二国記は面白い。

【今日の曲】
MOTOO FUJIWARA「meaning of birth」『SONG FOR TALES OF THE ABYSS』(2006年)

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十二国記シリーズについて書いた記事をまとめました。シリーズのはじまりから、2019年最新作のお話までです。

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