推しの結婚という衝撃から自分を立て直す方法

ここ最近のTLを見ていて、ある友達が話していたことを思い出した。友人である彼女の“推し”が結婚を発表したときに、吐露していた言葉たち、そしてそれを聞き話し合った考えたちのことを。
この話は、もしかすると、誰かの心を軽くするかもしれないので、書いてみることにする。もちろん、本人には許可をとった。
ここに書くことが、めでたいことなのに、何かが心につっかえているんだと苦しんでいる、あるいはちょっと気分が落ち込んでいる誰かの助けに、少しでもなったら幸いだ。

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推しと創作物と自分

彼女の“推し”は作品を作る人である。ここでは便宜上、分かりやすい“推し”という言葉を使っているが、彼女の好きな気持ちを明確に言語化するのは困難であることを記しておく。

彼女の“推し”が結婚した。それについて色々思うことがあったようで、3時間くらい話を聞いた。もちろん話題はそれだけというわけではないが、脱線しつつ主題はそこにあった。
以下を、結婚に対して思うこと、自分を立て直す方法の順番で綴っていく。

第一に、出る言葉は「おめでとう!」というのが大前提だ、と彼女は話し出した。別に恋愛対象的な目線で見ていたわけではない、“推し”が笑えば、幸せならとても嬉しい。発表や文面も誠実で祝福しかないのだ、と言っていた。ただ、それでも衝撃を受けてえぐれた自分がいるのだ、と。

配偶者がいない状態の人物に対しては、勝手に、ファンとしては勝手に、その人にとって一番大事なものが作品であることを無邪気に信じられる。でも、結婚によって、そうとは言えなくなってしまったと思う。むしろそんなこと、どっちにしろ聞きたくない。だから、自分がこれまでと一緒の情熱を注ぎ込むことは出来ないなと思う、と語った。自分を幸せにしてくれたものを作ってくれた人には、幸せになって欲しいと思っているのにね、とへこんだ顔で笑っていた。これはエゴだよ、と。
“音楽”で例えるならば、音楽がその人物にとって、1番大事なものだと信じることが出来なくなったミュージシャンに、ファンとして、これまでと同等の熱量を注ぎ込むことはできない気がするといったところだろうか。
また、その作品に相手の存在がちらつくのも苦しい、と言っていた。今までは明確化されない靄で透明だったのに、突然感情に不純物が混じってしまう気がするのだ、と。

私も、音楽に対して常々思っていることが浮かんだ。例えば、大好きな曲を作った人に心底失望したとき、その大好きな曲をこれまで通りフラットな気持ちで聴けるのか、と問われると微妙な気がする。しばらくは聴くことが出来ないかもしれない。作品と作者を切り離して捉えたいと願っているのに、それは意外と自分にとって難しいことだと自覚している。つい、作った人のことまで知りたくなり、親近感を持ってしまうからだ。
ちょっとあなたの言っている話とは違うかもしれないが、そんなことを思うよ、と友人に伝えた。

そうやって色んな話をし、別れるときに彼女は「少し気持ちが軽くなった」と言って、帰って行った。

その後、立て直した方法のいくつか

その後、衝撃からどう立て直していったかも教えてくれたので書いておく。なかにはほんとヒッドイよね~と苦笑しながら教えてくれたことも含まれている。

・自分よりへこんでいる人を見ること
・依存先を増やすこと
・距離をはかり、時間が経つのを待つこと
・無理に好きであろうとしないこと

のっけからひどいが、例えばこんな経験をしたことはないだろうか。喧嘩して怒っているとき、自分より相手の方が激怒していると妙に冷静になるというものだ。口が裂けても言わない方がいいが、自分より落ち込んだりモヤモヤしている人を見ると、ちょっと元気になる、とのことだ。

好きなものがたくさんある方が、自立しやすい。音楽一本というよりは、ジャンルが別々、音楽、演劇、お笑い、読書、料理が好きだったりするほうが、どれかが出来なくなったとしても、人生が楽しくなくなることはない、というように。

距離をとり情報を遮断、触れないようにして時間の経過を待つ、現状に慣れることも方法の一つである。大抵のことは寝て起きてご飯を食べているうちに薄れるものだ。
そして、揺らいでいるのに自分の気持ちを偽って無理矢理の状態に身を置こうとしないこと。

「これから次第ですな」
しばらく経ったあとに再会した彼女は、温かいお茶をすすりながら、そう呟いたのだった。

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