文章の作り方を考える

縛りがある方が書けることもある」という記事を書きながら、考えていたことがある。
自分がやっていることとは全然違うが、物語を書く人とか、どうやって作品を綴ることを組み立てていくんだろう、ということだ。小説を読んでいて、たまに、ああきっとこのシーンが書きたかったんだろうな、という渾身の場面を見ることがある。そこに至るために伏線は張られて鮮やかに回収され、読んでいる人間に感銘、爽快感を与える、ここぞ、という名場面やクライマックス。
あるいは、キャラクターが勝手に動くという創作者もいる。でも、多分その域へ辿り着く前に徹底的に舞台を整え、キャラクターに命を吹き込む地道な作業をしているんだと思う。これは自分がそう思いたいだけだろうか、いわゆる“天才”はそんなことに頓着せず、息を吸って吐くように書けるんだろうか。

どこかで、論文を書くとき10調べたうち1使えたら良い方、だの、物語を書くために100調べても使えるのは10だけだったりする、というような話を聞いたことがある。自分だったら、苦労して10調べたら10使いたくなるだろうし、9を必要ないと断じて削ぎ落とすことが出来るんだろうか、と考えてしまう。まあ、その9もどこで生きてくるかは分からないから無駄ではないと思うのだけれど。何かを作りがるためにそこまでできる力が必要なのか、それともやっていて、振り返ったら9削ぎ落として磨き上げていたことに気づくのか。

自分の作品を冷静に見る難しさ」という記事にも書いたが、自らが作ったものを即客観的に見るのはとても難しい。創作物は分身に近い。そして何かを作ることは楽しいが、そこには苦しみが伴うこともある。

色んなことを何も知らない方が幸せに生きていける気がするが、自分がそれをよしとしない。知識がなければ書くことも出来ない。日々、情報を食べて生きている。何かをこの世界に落としておきたいという欲もある。そんなことを思う。

【今日の曲】
100s「魔法を信じ続けているかい?」『世界のフラワーロード』(2009年)

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