無性に海を見たくなるときがある。それは大抵、スコーンと底抜けに明るい日のことだ。空の青に触発され、青々としたものをたくさん見たくなるのだろうか。
しかし、海に行ったとして、泳ぎたいわけではない。砂浜をぶらぶら歩いたり、波打つ音に耳を澄ませたり、ぼんやり景色を眺めたり、世界の広さに感嘆のため息をつきたいだけなのだ。
あるとき、友人を連れ立って三浦半島の綺麗な海岸に赴いた。そのときもまた、ただなんだか海が見たくなった日のことだった。
同行してくれた友人が海の楽しみ方を、ひとつ教えてくれた。それが「ビーチコーミング」である。この言葉はあとから知ったのだが、これがなかなか夢中になるのだ。ビーチコーミングとは、浜辺に打ち上がった漂流物、例えば貝殻やガラスを集める行為を指す言葉である。砂浜を梳かすなんて素敵な表現ではないか。
発見物のなかでも特に面白いのは、ガラスだと思う。海の波や砂にさらされて漂流したガラスは、たくさん傷ついてなめらかになるのだ。曇りガラスのようにぼんやりとした柔らかい色になり、手触りが良いのである。これをシーグラスという。また貝殻もいろんな色があって面白い。どんぐりを探しているときのように、椎の実を探しているときのように、プールの中で碁石を探すように、水面によく跳ねる石を探すように、収集とは楽しく夢中になるものだと思う。
そのときに知ったのが、海の磯臭さというのは、海から放たれているわけではない、ということだった。浜辺に打ち上がった海藻などの近くが特に磯臭いのである。海は特に取り立ててにおいはしないと思う。それは、もしかすると、風がさらっていったのかもしれないけれど。
そんな発見をしつつ、海岸を歩いていると、淀んでこんがらがった気持ちは、すぅっと梳かされていくような気がしたのだ。
海を眺めていると、その広さに対してとても不思議な気分になる。寄せては返す波の動きを神秘に思う。沈みゆく夕日を慕わしく思う。のぼりゆく朝日を愛おしく思う。毎日こんな景色がここでは繰り返されているのか、と日々を尊く感じる。
そして、あの圧倒的さを思い出すと、大丈夫だ、みたいな気分になるのである。
ああ、晴れ渡る日の海を眺めたい。
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