お喋りについて考えたくたなったので、つらつら綴ってみる。今回は“話す”寄りだ。
最近、どんなに仲の良い人間でも、お喋り可能時間があるのではないだろうか? という疑念が出てきた。人間は疲れるとなにも出来なくなる。
そもそもお喋りするとき、得意な人数があると思う。自分の場合、よく知っている人とならサシがいい。多くて対2、3人だ。でも合計4人になったら2・2になるんじゃなかろうか。あまり知らない人同士でも大人数はかなり苦手だ。自分が喋らなくてもいいなら気は楽だが、自分がそこにいる必要ないなー不毛やなと思ったら、多分帰りたくなる。主役になりたいとかそういう気持ちでは全くなくて、強いて言うなら家が大好きなのだろう。あと大人数で喋っているとき、自分が話し出すと全員に注目される感じがしんどい。面白いこと益のあることを言わなきゃと焦る。
たまに大人数の集まりで塊が分散し、誰かとサシで話す機会がある。そういうとき深い話ができる奇跡のタイミングが存在する。そういうのは好きだ。でも意図して作り出せるものでもないのが難しいところである。
さて、次は連続可能時間について考える。個人的には、3時間くらいだ。調子の良いときはいつまでも話していられると思うこともあるが、大抵3時間も喋ってると疲れてきて、話の内容の質が格段に落ちる。別にただのお喋りなので、くだらなくても全然良いため、問題ないと言えば問題ない。それに3時間も会話が続く相手というのは、そもそも互いに無言だったり、考え事していたり、ぼーっとしていてもスマホをいじっている時間があっても気にならない、気を許した間柄であることが多いのではないだろうか。
話せる内容があるかも大きな要素だ。私の場合、話の内容の80%はライブ、BUMP、アジカン、フジ、その他のアーティスト、総じて音楽のことなので、それらを聞いてくれる人じゃないと、話せる言語を失ってしまうのである。これは必ずしも相手が音楽を好きという必要はない。何かを好きでいるスタンスに共感、関心、面白がることができれば全然楽しく会話をすることが可能だ。私がそう思っているだけだったらどうしよう。まあ、こちら側も自分はよく知らない相手の好きなジャンルの話を面白く聞けるので、お互い様じゃないだろうか。内容も「レキシのグッズで光る稲穂がある」「光るんだ」みたいなことなので、それぞれのグッズ話が出来たりもする。
会話の本当の共通言語は、日本語ではない気がする。同じ日本語を話していても、話が通じないときがある。よく分からないときがある。そういうとき、持っている辞書が違うんじゃないかと思うのだ。
話やすいシチュエーションというのもある。個人的話が弾む第一位は電車だ。特に隣同士で長時間座っている場合である。目を合わせなくても良いのが喋りやすい要因のひとつだと思う。深い話、こういう言い方をすると怪しい感じになってしまうが、魂に近い部分、上っ面じゃない、自分では自覚していなかったような深層をたまに話すことができるのだ。あるいは、相手の深い部分、これまで知らなかった考えを聞くことの出来る機会にもなる。そういう時間はなかなか得がたいものだと思う。
会話って不思議だ。分かるようで分からないというか。
【今日の曲】
BUMP OF CHICKEN「話がしたいよ」『aurora arc』(2019年)
コメント